和倉温泉について
和倉温泉は、開湯1200年とされる歴史の古い温泉です。
北陸随一の“海の温泉”として、高温で豊富な湯量が魅力です。
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涌浦の発見と
シラサギ伝説
時代を遡ることおよそ1200年(大同年間(806年~810年))、薬師嶽の西側(現在の「湯の谷」)で温泉が湧き出しました。これが和倉温泉の開湯となります。
その後、貴重な温泉は日々の生活に利用され、「湯の谷で体を洗って漁に出ると魚がよく獲れる」などという逸話が残るなど縁起物としても重宝されました。
しかし、それから250年程が経った永承年間(1046年~1053年)に地殻変動が起こり、湧き口が沖合60メートルの海中に移動し、湯の谷の温泉は枯れてしまいました。
ところがある日、和倉に暮らしていた漁師夫婦が、ぶくぶくと泡立っている海に、傷ついたシラサギが身を癒しているのを見つけます。不思議に思って近づき海に手を入れると、熱い温泉だということがわかりました。これが“湯の湧き出づる浦(涌浦)”ということで、和倉の海で温泉を発見した最初といわれています。
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湯治の湯として人気に
慶長16年(1611年)、加賀藩二代藩主・前田利長が腫物で困った折に、『涌浦の湯』を取り寄せて治療したことから和倉の湯の評判が高まります。そこで寛永18年(1641年)、加賀藩三代藩主・前田利常が、湯口の整備と周囲の埋め立てを命じ、湯島が造られました。
これ以降、涌浦には多くの湯治客が訪れるようになり、“涌浦涌浦と家なら七つ、島に湯が出にゃ誰行こや”と半農半漁の七軒の家しかないのに繁盛する涌浦を唄った里歌が流行りました。
その後、湯島の埋め立てが進み、橋も架けられ、承応3年(1654年)に「宿方稼」が許可されるにつれ、大きな湯座屋や外湯として休憩する鉱泉宿、内湯宿などが建てられました。
延宝2年(1674年)には、加賀藩の命により「涌浦」は書き間違えやすい事から「和倉」と改められました。
幕末には評判が評判を呼び、遠く京都の公家や大阪の豪商、絵師や俳人なども訪れ湯治客が増えるに従い「和倉」の名はさらに轟くようになりました。
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世界的にも高評価
明治13年にドイツで開催された万国鉱泉博覧会では、「世界三等鉱泉」の栄誉に輝いており、和倉温泉の泉質と薬効は、昔から高く評価されています。
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皇族の来泉と
今も残る御便殿
▲当時の写真
▲現在の写真
明治42年(1909年)、当時の皇太子殿下(のちの大正天皇となる東宮殿下)が、皇族として初めて和倉にお越しになられました。県内の温泉地としても最初ということで、事前に殿下の御休憩所(御便殿)を建設するなどの対応が行われました。
御便殿は、総檜作りで本殿53坪、随員控室48坪の古風な建築様式で建立。お越しになる前日には、七尾湾に300隻以上の船が能登各地より奉迎者を乗せて入港し、和倉温泉の旅館は関係役員と報道関係者用に充てられ、歓迎ムードが高まっていました。
当日御便殿に入られた殿下は、七尾湾の風景を愛でられ、総檜作りの浴槽で温泉を楽しまれたそうです。
それ以降も皇族の方々が多く来訪されています。
※御便殿は、1976年(昭和51年)に修築を機に本殿は「青林寺」に、控室(供奉殿)は「信行寺」にそれぞれ分けて移築されました。2017年(平成29年)には、国登録有形文化財に登録されています。